Lost in Paris

異なる宗教と出会う時の、あの歯がゆさは一体何なのだろうか。

荘厳な空気に満たされた教会。ステンドグラス越しに入る色とりどりの光。ドームの天井に描かれた天使と女神と。教会の中心には、説法をするためなのだろうか、金色の台が据えられている。"only for prayers"と書かれた標識の向こうで椅子に腰かけ、両手を合わせ目を閉じる人々。

私はその建物の内側いっぱいに施された装飾を美しいと感じる。祈りを捧げる人々を美しいと感じる。
しかし何となく美しいと感じるだけで、理解はできないのだ。彼らの信仰してきた物語のスケールを、この空間に彼らが満ちていると信じている聖なる空気を、しっかりとした手触りをもっては、理解できない。
それらが、「彼らの目には」しっかりと映っているのだという、その事実だけはわかる。だから、確かにそこにあるのだと私にもなんとなくはわかる。すぐそこにある尊い物語を、尊い存在を、目の端で捉えている。でも、それは私の手に余るほど大きい。なんだか表面を撫でているだけのような気がする。

教会の椅子に座り、どこか居心地の悪い思いでぼうっとしていた。

人間は、やがて来る死の恐怖から逃れ、今に何らかの意味を見出すために、自らの支柱となる宗教を生み出した。いつかどこかの大人の言っていたことを思い出す。
彼らの信じているものは、キリスト教の信者ではない私の目には、どこか人工的に映ってしまう。「神はいるか?」と聞かれれば答えに戸惑ってしまうし、「イエスは復活したか?」と聞かれれば、正直、そんなことあったのだろうかと疑ってしまう。イエスは存在したかもしれないけど、まさかここまで長い期間にわたって自分が信仰の対象になるとは、彼も予想していなかっただろうな、なんて思ってしまう。
彼らキリスト教信者の心の拠り所は、実は砂の城のように脆いものなのかもしれない。長い時間をかけて、人間が作り上げてきた砂の城。見た目には美しいのだけど、人々の信仰が無くては、全く無価値なものとして崩れ去るかもしれない。少なくとも私の目にはそう映った。

こんなにも美しい教会の中で、ただひたすらに祈る者達を前にして、そんなことを考えている自分が凄く嫌だった。何も考えずに、手放しでこの建造物と空間の美しさを褒め称えられたら、どれほどよかっただろうか。
私は、違和感を無視できなかった。
どんなに美しくても、「神聖そう」でも、やっぱり私には分からない。この人達の信じているものが持つ強度が分からない。

パリ郊外、モンマルトルのサクレクール寺院でこの素朴な違和感を感じたのは、羽田に発つ前日の出来事であった。
帰りの飛行機で、『ロスト・イン・トランスレーション』という映画を観た。東京に仕事でやって来たアメリカ人俳優の男性・ボブと、結婚二年目の夫の仕事に付き添い東京を訪れたアメリカ人女性・シャーロットが同じホテルに宿泊し、東京という街に馴染めない者同士として、かりそめの繋がりを構築していく物語だ。

映画の前半で、シャーロットは夫が仕事の間、一人で神社を訪れる。(お寺と間違えているのではないか?とも思ったが。) お経をあげる僧侶を不思議そうに、真剣に見つめる。その日彼女は、日本にいる友人に電話をかける。
「私、今日神社に行ったのよ。僧侶がいたわ。…私、それ見て何も感じなかったの。」
彼女は涙ながらにそう語った。
シャーロットはこの時夫と倦怠期で、友人に夫の愚痴も漏らしていたため、涙の原因は神社の一件だけではなかったかもしれない。
しかし、私は彼女の感情に強く共感してしまった。凄く荘厳そうに見える。人々も神妙な面持ちでそこに居る。なのに、自分にはそれが理解できない。彼らの感じている「尊さ」「神聖さ」を感じることが出来ない。そのもどかしさ、疎外感。

映画の中で、私達が普段目にする日本の街並みは、彼女達の目に奇妙なものとして映る。街中に溢れる看板、洋風とも和風ともつかない建物。よそよそしい接客のしゃぶしゃぶ店。
私にとってパリの街並みも、とても異質なものに感じられた。街中の建物は隅から隅まで繊細な装飾が施されている。そのくせ地下鉄の駅は味気ないくらいに装飾性がなくて、むき出しの生活がそこにあった。人々は皆が強い芯を持って生きてるように見える。
人々が憧れるのはこのパリの様相なのだ。分かっていても、なんだか馴染めない。建物は美しいと思うし、この街にはこの街特有の何かが漂っていると思う。
しかし、日毎に募る疎外感。私はこの街にとって完全に余所者なのだなぁと思う度、当たり前に目にしていた日本の街並みが恋しくなった。

不思議だったのは、パリではなく、モンサンミッシェルの田園風景や港町サンマロにはそのような違和感を抱かなかったことだ。きっと、草原や川や海は日本との共通項だったからだろう。
都市部、人が大勢住んで、建造物を所狭しと建て、信仰の中心となる場所。そういうところにこそ固有の文化は集中的に育つ。

海外に行くのは、四年前にイタリアに家族旅行をしてから二度目だった。四年前はこんな違和感や疎外感を抱かなかった気がする。もしくは、感じていたとしても若すぎてそれに気づかなかったのか。

私のフランスへの旅は、未知の宗教、未知の街並み、未知の文化との遭遇であった。異質なものとの接触は、私にとって少しハードでストレスフルだったけれど、パリで迷子になったことはきっと忘れないと思う。