循環の岸辺から

 春だ。めくるページにできた日だまりには、明るい黄色のワンピースを着た、光の精が棲んでいるような気がする。予報によれば、今日からは、あまり気温が下がらないらしい。

 冬を脱ぎ捨てて春に向かう時間の流れは、汗ばむくらいの陽気と、わたしをつめたく閉じ込めるような寒さとを、一日ごとに行きつ戻りつ、一進一退、ウンウン唸りながら重たい荷物を引っ張り上げるかのようだった。日々の寒暖差に振り回され、なんとなく体の不調を感じたりもした。季節は決してたやすく移り変わるわけではなくて、多分春も、今日のこの陽気を迎えるまでに相当苦労したんだろうなぁ、と思う。

 わけあって大学五年目の春を迎えた。入学してから出会った同期たちの多くが、大学を去った。彼らと入れ替わるように、新しい一年生たちが入学して、四月に入って早々、卒アル編集会の仕事で彼らの集合写真なんかを撮ったりした。ここにいる一年生たちは、今から第二外国語の必修を受けたり、ALESAや初ゼミを受けたり、進振りを考えたりするのか。歴史は繰り返し、続いていく。時間が循環している。卒業した友人たちは、新しい場所へと進んでいったわけだから、正確には循環はしていないけれど。ぽっかり空いた空席に新しい世代がぞろぞろ座って、ここにわたしの居場所はまだあるのかな? 少し不安になる。去っていった友人たちを想うと、わたしの心にもぽっかりと穴が開いてしまったような気がする。

 よどみなく流れていく循環から少し逸れた岸辺で、わたしはすべてが流れていくのをぼやっとしながら眺めている。四年間の時間の塊に区切りをつけて去っていく人たちを、入学したてでキャンパスの勝手がわからずうろたえながらも時間の中を突き進む人たちを。それは大きな交差点で交わる雑踏を、少し離れたところから眺めているのに近い感覚かもしれない。

 卒業式の日はよく晴れていて、日差しが、まだ葉をつけていない銀杏並木の枝の間から、卒業生たちの頭上にたっぷりと注いでいた。私は並木の脇の塀の上に腰掛け、再会を喜ぶ人々を、記念写真を撮る人々を、眺めていた。頭上の木からは小鳥の朗らかな鳴き声が聞こえて、何か救われたような気持ちになる。去年もここで聞いた鳴き声。季節は確実に巡っている。私はそれを眺めている。岸辺は少しだけ寂しいけれど、時間が、季節が、よく見えていい眺めです。ふと隣を見遣れば、スーツや袴に身を包んだ卒業生たちで溢れ返る並木の脇の塀のそばには、何人かの私服姿の学生がいた。岸辺にいる人たちを見つけて、少し嬉しくなった。