写真機

少し前の私にとってカメラは、すがりつく対象だった。

 

胸の中にあるもやもやとした気持ちを、言語化できない、するのも煩わしい。なるべく触れたくない。気持ちを直視したくない。

自分の内面に対峙し思考することを放棄してしまいたいぐらい余裕のない時、撮ることをした。

目の前にあるものを、どのように長方形の枠の中に収めようか。後で見返した時に、どこにどの対象物が配置されているのが一番しっくり来るか。

それだけに意識を集中させ、試行錯誤をしている時、私は私の内面に触れないで済む。ただ、被写体という外部にのみ注意を払えばよい。今振り返ると、かなり余裕がなかったと思う。

 

最近、目の前にある風景をカメラではなく身体で撮ることを覚えた。

四角い枠の中に収めようとするのではない。レンズを通さずに、そこにあるものをそのまま受け止める。立体的に。

 

カメラを持つことで、感覚は研ぎ澄まされると思っていた。瞬間を逃したくないと必死になるから。確かにそうかもしれない。でも行き過ぎたそれは、かえって感覚を鈍らせるのかもしれない。枠に何を収めるか?そのことばかりに注意を払ってしまって、他の要素をぽろぽろ見落とす。

 

カメラを首から提げていても、そんな風に余裕のない姿勢を捨てれば、自然と感覚は敏感になる。

カメラという機械を介さずに感じられるもの 。におい。温度。色。

四角い枠には収められない。

足裏に触れる白い砂のさらさらとした感触。くるぶしをひんやりと包む海水。鼻腔を抜けるどこか懐かしいような潮の匂い。頬を撫でる冷たく爽やかな海風。「青」で示される色は沢山あるが、その色彩は多様だ。ひとつの名で括られることに違和感を感じるほど。目で見たそのままの色を写真に写すことは、難しい。

 

昨日海を訪れて、今まで自分の感覚がいかに鈍っていたかを思い出した。直に触れ感じることを久しぶりにした。

余裕の無い内面から目を逸らし、カメラに逃げ込むのはやめようと思った。写真を撮るのは好きだ。でも、それだけになってはいけない。感覚を研ぎ澄まして、身体に記憶を刻み込みたい。

 

"写真機は要らないわ 五感を持っておいで"

 

椎名林檎の「閃光少女」の一節を、思い出す。