午前二時

フロアに流れるダンスミュージック。恵比寿の、恵比寿ガーデンプレイスの真反対の路地にひっそり佇む建物の一階では先刻より、嬌声とグラスの割れる音がひっきりなしに響いている。俺はなんでこんな所にいるんだ。薄暗い照明の下では、酔った男と女が何組も、もたれ掛かり合い卑しい笑い声を上げており、酒に酔えない俺は全くもって不快で仕方なかった。黒い壁に背を預けて一人で酒を呷りながら、その地獄絵図とも呼ぶべき光景を辟易として睨み付けていた。

「ねぇねぇ」

甲高い声がすぐそばまで迫っていたことに俺は気づいていなかった。少し驚いて声のした方へ顔を向けると、明るい茶髪をくるくると巻いた化粧の濃い女がいた。胸元の大きく開いた薄水色のレースのドレスを身に纏い、手には店で出されたショートケーキの乗った皿が握られている。

「あたしねぇ、寂しいの、彼氏と別れるのよ、もう。おにいさん、かっこいいよねえ」

だらしなく口許を緩ませてすり寄ってくる女は、俺のタイプでも何でもなかった。汚らしくて惨めで軽薄だ。

「ちょ、どいてください、」

近づいてくる下品な身体を遠ざけようと押しのけると、そのはずみで女の手にしていたショートケーキが皿から滑り落ちた。ケーキはぐしゃりと潰れ、白いクリームが黒い床に無惨にへばりついた。

「やだぁケーキ落ちちゃった、ねぇ麻美ちゃあん聞いてよ!」

女は甲高い声で叫びながら、ふらつく足取りでフロアの中心の雑踏へと消えた。

「なんだよあの女、ケーキどうすんだよこれ」

小声で悪態をつきながらジントニックを流し込む。喉は焼けるが酔いのまわらない頭は冷えたままだ。

「落としたんですか」

下の方から低い声が聞こえて見下ろすと、真っ黒なドレスを着た短い黒髪の女が、ショートケーキの残骸の上にしゃがみこんでいた。

「勿体ない」

そう呟いた次の瞬間、彼女は長い指で床の上のショートケーキの上部を上手にちぎり取って口に含み、こちらを一瞥すると立ち上がって俺のすぐ横の壁にもたれかかった。夜の闇のように黒い瞳だった。フロアの中央からは物凄い頻度でグラスが割れる音が聞こえる。

「君は酔ってないみたいだね」

「…無駄に酒に強いんですよ」

苦笑しながらそう答えた。彼女が隣でグラスを傾ける。恐らくウイスキーだろう。

「あなたもお強いみたいですね」

「いつもなら少しは酔うのに、興醒めしちゃって逆に頭が冴えてるの」

「俺もです。こんなの来るんじゃなかったな」

暫く沈黙が流れたが、その間も馬鹿らしい騒ぎ声はやむことがなかった。tofubeatsの水星が流れ、中央のテーブルに居た男たちの集団がマイクを取り合い、耳障りで下手くそな歌を歌い始めた。

「どうせ酔えないんだから、行方不明になろう」

遠くの乱痴気騒ぎをぼうっと見つめていた彼女の横顔が、低い声でそう言うと俺の手首を掴んで勢いよく引っ張った。凍るほどに冷たい手だった。彼女の髪からは十年前に別れた恋人と同じ香水の匂いがした。