Nocturne

彼と会うときは、いつも雨が降っていた。

 

新宿三丁目の小さな喫茶店を出て、通りを歩く。蒸し暑い空気の中、彼と一緒に都庁の展望台に向かっていた。昼下がりの空には今にも雨を降らしそうな灰色の雲が低く垂れ込めていて、雑踏には梅雨特有の閉塞感が漂う。

さっきから、うまく会話がまわっていない。原因は分かっている。普段は話し好きな私だが、彼の前では緊張して言葉が出てこない。彼と会うときの私は、彼の言葉や、彼の纏う穏やかで毅然とした空気を味わうのに精一杯で、能動的に話すことができなくなってしまう。彼への憧れのようなものが、仄かな熱をもって胸を満たすのだ。彼といるとき、私はいつも一杯一杯だ。でも不思議と、私はその少しの居心地の悪さが嫌いではなかった。胸の中には常にさわさわと波が立っていて落ち着かないけれど、それがくすぐったくて心地よくもあった。彼がどう感じているかはわからない。もしかしたら退屈に思っているかもしれないし、私の不自然な様子に感づいているかもしれない。

「あ、雨降ってきた。」彼の声が沈黙を破った。

「傘持ってきてないや。」

「私も。」

「でもこのくらいなら平気じゃない?」

平気平気、そう返して、ビルの間をずんずん歩き続けた。雨はだんだんと強くなる。コンクリートばかりの新宿でも、湿った空気は確かに土の匂いを含んでいた。私たちはひっそりとした談笑と沈黙とを繰り返しながら、濡れてゆくアスファルトの上を歩いた。愉快だった。さわさわと落ち着きなく、しかし楽しげに波立つ気分が心地よかった。

「雨の日が好きなんだ。雨でぼんやり霞んだ世界の方が、眩しい世界より落ち着くから。」

 彼がゆっくりと選んで発する言葉が、ひとつひとつ、雨音の静かなざわめきの中に溶けていく。私はその言葉の中から、豊かで鮮やかな彼の世界を決して逃すまいと、自らの心の中にすくい上げようとする。隣を歩く彼の横顔、強く優しい彼の瞳に、惹きつけられて動けない。なんて美しい人なのだろう。熱がじんわりと喉元までこみ上げるから、私はやっぱりうまく会話ができない。ただ彼の言葉が、アスファルトの水たまりにぽつりぽつりと落ちる雨粒のように、美しく響くのを、聞いていた。

 

梅雨の間、私たちは何度か一緒に出かけ、その度に二人とも傘を忘れて雨に降られた。私は彼の前ではいつでも一杯一杯で、やっぱりうまく話せなかった。自分の彼への気持ちが、恋慕なのか、あるいは憧れや尊敬の気持ちなのか、分からないままに日々を過ごした。

やがて長い梅雨が明けると、彼と出掛けることは少しずつ減っていき、いつの間にか彼には恋人が出来ていた。夏の無邪気な青空の下で、私はたった今彼の友人から聞いたばかりのその知らせをうまく消化できずに、目の前の眩しい芝生をぼうっと眺めていた。悲しみとも少し違うような、静かな喪失感。日差しは肌を焼き、心まで渇いていくようだった。

イヤホンを付け、ウォークマンをシャッフルモードに設定して音楽を再生する。ピアノの透明な音色がゆっくりと流れ始めた。ショパンノクターンだ。透き通った穏やかな水面に、ピアノの一音一音がこぼれ落ちて、美しい水紋を広げてゆく。彼への気持ちが一体何だったのか、分からない。でも彼が発する言葉は、確かに私の世界だった。そのことを、イヤホンから流れるピアノの音色に、認められ、許されたような気がした。こんなに眩しい晴れの日にも、彼は、変わらず雨の日が好きだと言ってくれるだろうか。

 

 

 

 

 

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コラムランド2020Sセメスター第5回に際して執筆。テーマ「雨」。