0時。さっき二人で歩いた街路は、しっかりと雨に濡らされていて、でももう雨は降ってなかった。当たり前だけど、夕方には人出のあった街も、こんな時間になると誰もいないんだ。足音ひとつしない夜の商店街で、街灯の白い光だけがやけに煌々と灯っている。私、こんな街の姿、見たことなかったな。いつもは部屋にいる時間。

ねぇ、空気の匂いを嗅いでみて。わかる?残酷だね、もう春の匂いだ。それに、雨後の土の匂いも混ざっている。それはほんの少し死の匂いだ。円環の季節を移ろっていく自然は美しい、けれど、たまに不安になる。春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬が繰り返していく、その円環の中に私はこれから先ずっと閉じ込められたままなんだろうか。来年もきっと同じように春が来て、桜が咲いて、散って、新緑が瞳に眩しく、そして梅雨が来て。

私、あなたになりたかったな。ここから見えるあなたは、とてもきれいだったよ。例えば夜のプールの水底みたいに。灯りに照らし出された水は青色に揺らいで、水底には光の模様がゆらゆらと波打っている。あなたは私にすべてを見せてはくれなかったし、私から見えるのはいつも薄明かりの中の幻のような光だけだったけれど。でもそれがとっても、きれいで、私はずっと、水辺を離れることができなかった。

いっそ飛び込んで、私も溶けて水になってしまいたかった。

でも、水際でいい。ゆらゆら揺れる水の中を、一人でここから覗き込んでいるだけでいいの。だって、私が飛び込んだことで、きれいなあなたが変わってしまうのが、消えてしまうのが怖い。なんで飛び込んだの、って責められるのが、拒まれるのが怖いもの。私はだから、プールサイドに体育座りをして、ただ目の前の青色の光に魅せられていた。

夜のプールを照らしていた光はいつの間にか消えていて、真っ暗闇ではあなたの形も見えなくなってしまった。まぶたの裏には確かに深い青の光がこびりついているのに。こんなにもかんたんに、見えなくなってしまうのね。あなたの光を失うくらいなら、一生遠くから見つめていようと思っていたのに。やがて見えなくなってしまうなら、飛び込んでおけばよかったのだろうか。水際であなたを見ていた私の時間は、ちゃんと存在していたのだろうか。それすらも確信が持てなくなる。もう以前のようにあの青の光の美しさをありありと思い描くことができない。

毎年同じような季節のめぐる円環の時間の中には、色々なものが閉じ込められている。青の光、いつかの炎、恐怖に安堵、軽やかな失望。季節がめぐるたびに、それらは折に触れて私を襲う、この先もずっとそうだと思っていた。でもそうじゃなかった。季節がめぐるほど、それらは少しずつ確実に、忘れられていく。私はもう、あのとき目の前にあった光をあのときの熱のまま想起することができないし、すべてが輪郭をぼかされて砂の中に埋もれていくのを、なすすべもなく見つめているしかない。いつか私を魅了し、私に何かを渇望させ、私を苦しめもしたものたちが、もう私に一ミリの感情の波も起こさなくなっていくのを、ただ過去になっていくのを、見てる。

私、きれいなあなたになりたいままでいたかった。雨で濡れた夜道の真ん中で、私、涙ひとつこぼせないまま、そう思った。