洗濯物を干す人

季節の変化を、濡れた洗濯物を干す時と取り入れる時に感じるようになった。

 

週の半分以上の時間を、家に引きこもって過ごしている私は、昼前にのそのそと起き出し、部屋着のまま洗濯機を回してテレビを見ながら朝ごはん(昼ごはん?)を食べる。洗濯が終わったらベランダに出る。

手に持った濡れた服が少し冷たくて寒いと感じるほど、一気に冷え込んだ時期があった。もういつのことだったか覚えていないが、数週間前のことだろう。秋の朝をすっ飛ばし、早くも冬の朝の鋭い冷たさを私はベランダで感じ、ひとり静かに度肝を抜かれてひやひやしたのを覚えている。

あれからしばらく経って、冬のような寒さは過ぎ去り、穏やかな秋晴れの日が続いている。洗濯物を手にベランダに出れば、雲ひとつない抜けるような青空が広がっていて、清々しいけど少し恐ろしい。夏の青空は大抵猛暑と共に広がっていてあまりにうるさく圧倒的だが、秋の青空はひたすらに静かに高く澄んでいて、陽光に照らされた木々は少しずつ色を変えており、その光景があまりにも正しく静謐な美しさなので私は怖くなる。

ともあれ、晴れの日が続くのはいいことだ。なんてったって洗濯物がよく乾く。ひとつひとつ丁寧にハンガーにかけた服たちを等間隔で物干し竿に掛け終わったのはもう昼のことだった。

日が短くなっている。日が短くなっていることに、ふと窓の外の洗濯物たちに目をやった時に気づく。ガラス戸を開ければ昼間より少しだけ空気は冷たく、雲ひとつなかった青空は、雲ひとつたたえぬまま淡色(あわいろ)に薄く染まっている。夏の夕暮れが鮮やかな色同士の戦いなら、秋の夕暮れはすべての色たちに等しく白を混ぜたよう。色は薄いけれど、限りなく透明に近い色だ。

秋の夕暮れの色は日によってかなり異なる。水色一色のままの時もある。紫から黄色へのグラデーションを成すこともあれば、水色から黄色へのグラデーションもある。時には橙色がそこへ加わることもあり、私は橙色を含んだ秋の夕焼けがとても好きだ。静かで透明な中に、何かひとつ、鮮烈な熱を秘めているようで。

物干し竿に掛かった洗濯物を触れば、やはりまだ湿っている。日が短いのに寝坊をしてしまったので、じゅうぶんに陽の光を浴びられなかったのだろう。事実、秋の太陽はなぜか、十三時にも十四時にも、まるで夕暮れ時のように鋭角の光を黄金色に投げかけている。きっと洋服たちが浴びたいのは、午前中の眩しい太陽の光なのだろう。今日も申し訳ないことをしてしまった。今日取り込んだ服たちよ、明日こそは少し早く起きて、午前のうちに外に出してあげるからね。

 

いつだって、うちのベランダから見える景色は静けさの中に横たわっている。私の家は住宅街の中にあるから、静かなのは当たり前かもしれない。たまに、隣の家のテレビの音がやたらうるさく聞こえてきたり、遠くの小学校から子供たちの遊ぶ声がさわさわと、幻のように私の耳に届いたりする。

毎日の洗濯物のお世話の時間が、ひとつの固定観測地点になっていて、私はベランダに出る度に、季節の移り変わりゆくさまをなんとなく感じ取る。洗濯物は季節によって、天気によって、気持ち良いくらい完璧に乾いたり、全然乾かなかったりする。洗濯物にかかわる時間は私にとってひとつの手触りある現実だ。

一方で、ベランダから眺める静かすぎる眺めや、たまに幻のように届く音たちは、おそらく確固たる現実としてそこにあるのだろうけれど、私にはそれが現実の世界だということがよく分かっていない。そこには確固たる手触りはなく、私はベランダにひとり立ち、ガラス一枚を挟んで世界を傍観しているような気がする。

 

ある日の私は、日も暮れ切った18時に、洗濯物を取り込んでいないことを思い出してベランダに出る。外はすっかり暗いけれど空は少しだけ青色を含んでいて、家の前の道をバイクが通る音が耳に飛び込む。それらをどこか他人事のように眺めながら、洗濯物を触ればすっかり冷たい。冷たい布の手触りと晴れた秋の夜のひやりとした空気だけが、真実として私に接続する。