傷跡

こんな寒い曇り空の夕方に、街に出かける時、私は何の曲を聞いたらいいのだろう。この、私の過去も未来も全てがどうでもいいような、でもいとしい人達だけはどうでもよくないような、そんな気分にしっくりくる曲ならもうずっと前から存在してない。どんな音楽も微妙に凹凸の形が私の心の形に合わなくて、これほどまでの音の無駄遣いはかつてこの世にあっただろうか。

日の暮れた街の中、高架の上を電車が走る、その電車の中のある窓のそばに私は立っている。電車の進行方向と同じ向きを向いて窓の外を見遣れば、高架の下の方に、置き捨てられた自転車が、建物が、道路が、信号待ちの車のテールランプが流れてゆく。上からそれを見つめる私は、まるで世界を統べているかのような気分の良さを感じる。

誰かに傷つけられたときの言葉を思い出そうとしても、すぐには浮かんでこない。確かにそれらは存在していたし、私の記憶の中に沈殿しているはずなのに。傷の記憶はコントロールできない、きっとそれらは、何の気なしに再訪した土地やお店や、懐かしい香りによって不意に想起されて私を小さな針で刺す。すっかり忘れていた人の、すっかり忘れていた台詞に、今の私がもう一度傷つく。思い出は、一度忘れないと思い出にならないとか言う。思い出すから思い出なんだと言う。