Sid and the Daydream

彼。彼は、真っ黒なコートを着ていた。
冬。冷たい雨の静かに降る日。私たちは駅の出口で待ち合わせをした。手にした本からふと顔を上げると、向こうから、黒いコートを着た彼が近づいてくる。透き通るように白い肌。雨に濡れたのか、その黒髪はわずかに湿っていた。瞳も濡れたようにつややかに黒く、私はそんな冬の雨の日の彼を、完璧だと思った。

 

彼は、真っ黒な瞳をしていた。
彼の瞳は気だるげで、この世の全てに絶望しているかのように見える。潤んだ宇宙のような瞳を見つめれば、私はその瞳の黒に吸い込まれてしまう。

しかしその黒は、まったく光の差さない闇とも、違っていた。確かにきらめく光を奥底に秘めた、黒く熱い瞳だった。それは私に、真っ暗闇の中に沢山の星が瞬く光景を思わせた。私は、彼の瞳の中のその光に、捉えられてしまって、すっかり動けない。彼の瞳の奥底に光るもの、それは例えば、物事の本質を見抜く鋭い洞察力であった。あるいは、時に熱く燃え上がる感情が発する、煌々とした光であった。

 

彼の髪は、真っ黒だった。
彼の髪に触れたことは無かった。無造作に重なり合うその黒髪は、少しだけ硬そうに見えた。いや、もしかしたら、触れてみたら、柔らかかったのかもしれない。
真っ黒な瞳の上に、重たく落ちかかった真っ黒な前髪。彼は、固く閉ざした心を、簡単には人に開かなかった。瞳にかぶさる前髪は、彼の警戒心の高さを、そのままに映しているような気がした。黒髪が揺れ、その向こうにあの真っ黒な瞳が覗く時、その奥底から放たれる光に、私は撃たれてしまうのだ。

 

彼は、会う度私を、誰にも覗き見ることの出来ないような暗闇へと、連れて行った。
とはいっても、実際の行き先はまちまちであった。喫茶店に行くこともあれば、本屋に行くこともあった。ある時はカラオケで、互いの好きな歌を心ゆくまで歌った。
では、彼が私を連れてゆく暗闇とはなんだったのか。それは、彼が見ている世界であった。そこはもの寂しくて、彼のほかには誰一人いない。私はその孤独な暗闇の中で、彼と共に、瞬く星の光を見た。ある時は 彗星の流れてゆくのを見た。それらは皆、色鮮やかで、眩しくて、暗闇の中で、私を捉えて離さないのだった。

 

いつもの駅前で、彼と別れる。黒いコートの背中をちらりと一度だけ、振り返る。私は暗闇から抜け出し、明るく照らされた電車の中へ乗り込む。それからしばらくは、暗闇の中で見た光が、目に焼き付いていて、高揚感が脳を浸した。しかし、電車を降りて、歩き出す頃には、いつも決まって悲しくなった。それは、決して彼のことが恋しいという訳ではなかった。

さっきまで見ていた、彼の瞳の黒の、深いこと。さっきまでいた、暗闇の黒の、深いこと。彼の黒が深いのは、きっと、彼の孤独や絶望の深さに比例している。だからこそ私は、さっきまで見ていた光の色鮮やかなのと同じくらい、暗闇の黒の深いということが、無性に悲しくて、仕方がなかった。