枝垂れ柳

十月の甘い夜風が、私の肌をかすめて過ぎてゆく。

耳には群衆の話し声に笑い声、鈴虫の鳴き声、そしてあなたの低い声。その底抜けに明るい笑顔と、広い背中と、筋肉質な腕と、日焼けた肌とに、くらくらしていた。あなたから香る正しくて健康的な匂いが、私を浮き足立った気分にさせる。このままあなたと、堕ちてしまうのもいいのかもしれない。整った横顔を視界の端に捉えて、思わず口角が上がってしまう。きっとあなたも、同じことを思っているのでしょう。だからこうして今日、私をこんなところに誘ったのでしょう。

暗くなりかけた多摩川の宵の空に、ドンと赤い花が弾ける。嬉しげなどよめきが夜の河川敷を覆う。無邪気にはしゃぐあなたの瞳には、赤や緑の色とりどりの光がきらきらと映り込んで踊っていた。私の手からあと少しのところに、あなたの手。私の肩からあと少しのところに、あなたの肩。触れてしまえば、私の熱はきっとあなたに伝わってしまう。あなたの体温を知ってしまえば、私は私を止められない。嗚呼でも、超えてしまいたい、この微妙な距離を。あなたもきっと、同じでしょう。視線と視線が一瞬絡んで解けた、その甘ったるさが胸を満たす。

ひゅるひゅると一際高く昇ってゆく火の玉を見上げる。パッと消えた次の瞬間、大きな音と共に金色の花が夜空一面に広がった。弾けるその音は和太鼓のように私の胸の奥まで響いて、琥珀色の光の筋たちが勢いよく闇の上を滑って広がる。広がったその先から、夜空の黒にじわりと溶ける。枝垂れ柳だ。その余韻の星屑が、はらはらと闇の中を舞い落ちて溶けて消えるまで、眼前の光景から目が離せなかった。

なんて美しくて、なんて悲しいのだろう。

iPhoneのカメラは、その美しい光の一生を収めるのには何の役にも立たずに、私の手の中に握られたままだ。弾ける瞬間の爆発音と共に空っぽになった私のからだを埋めようとするかのように、赤や緑や青や白の色とりどりの花が精一杯に咲いては散るけれど、どれも私の目には虚しかった。不意に吹いた秋の夜風が、つい先程まで火照っていた私の肌と心を冷やす。

『夏の幻影を見た、気がした。』

秋の花火大会で。あなたの身体と、私の身体とが帯びる熱。胸焼けするほど甘い時間への誘惑。けれども、美しく咲き誇った黄金の花が次の瞬間しずかに散ってゆくその様が、目に焼き付いて離れない。私もあなたも有限で、始めてしまえばきっと終わる。あなたの指にあと少しで触れそうだった左手を、そっと引っ込めた。

始めなかった。始めなかったというその選択を、許し、愛せる日が来るでしょうか。

 

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椿本ゼミ第六回に際して執筆。お題「季節」と「したごころ」