うしなう
熱帯夜が終わった。
少しだけ開けた窓から入るのはもう熱気ではなくて、代わりに静かな虫の音が夜の部屋に侵入してくる。この鳴き声がなんて名前の虫なのか全然わからないけど、もう夏じゃないんだってことだけは分かる。ふしぎ。
冷房を入れては寒くなって弱めて、また蒸し暑くなってきて強くして、みたいな茶番をやる必要ももうない。冷房の電源を消して、天井を見上げる。
胸の底にこびりついて消えてくれない記憶の断片って、ありますか。
日付を書く時、「九月」って書く度に少しずつ体温が下がっていくような気がする。
八月が終わって、夏が終わった実感も特になくて、でも確実に肌を撫でる風はかなしいくらい優しくなっていくし、日差しもやわらかくなっていく。
夏が来る度、私は高熱を出しているなぁと思う。二ヶ月弱にわたる、発熱。
梅雨。毎日雨、雨、雨、雨の日々が終わって、なんだか夜の風が人肌みたいな温度で皮膚にまとわりついてきて、夏が来ることを予感して、もがいていた。やだやだ、夏なんて。享楽的で刹那的で我を忘れる夏なんて。
往生際が悪い。
結局、私は夏に屈する。熱で頭が半分機能停止してるんじゃないのかな。日差しがじりじり肌を灼くのも、べたべたと肌にまとわりつく湿気も、青すぎるぐらい青い海も、別に嫌いじゃない。嫌いじゃないどころか、ちょっと好きだ。浮き足立ってしまう。
八月が終わった。夏が終わったという実感はない。ただ、毎日少しずつ少しずつ、この夏の記憶が、遠のいているような気がする。
いま、終わったんだな。
白い天井をぼーっと見つめる。
誰かに背中を押されて、狭間に落ちてしまった。夏と秋の狭間に。
だってほら、もう、夏に薄い膜が張り始めた。ぼやけてきた。よく思い出せない。いつか見た花火の光だけが、やけに瞼の裏に焼き付いている。
秋の空気が肺を満たす。じわじわと孤独が浮き彫りになってゆく。
二、三年ほど前によく聞いていた曲を流した。
もう遠い昔の出来事だと思っていた。思っていたのに、フラッシュバックのように蘇ってしまった。秋の日。雨の匂い。濡れたアスファルトに溶けるオレンジ色の街灯のあかり。革靴が立てる水音混じりの足音。冷えた肌。胸が軋むような香り。秋の香り。
あぁ、どうして消えてくれないかな。
秋が好きだよ。そう言う時、いつも少しだけかなしい。
熱がさめてゆく。暑さに鈍っていた頭は段々働くようになってきて、熱にうかされてた心はぴたりと孤独に張り付いてゆく。
夢だったんだろうな。夏は。
胸の底にこびりついて消えてくれない記憶の断片って、ありますか。
私はあります。秋が来る度に疼きます。
きっとこれから何年も、秋が来る度思い出すのだろう。寂しいけど、かなしいけど、少し幸福だ。そういう、秋を待って胸の底に沈んだちっちゃな時限爆弾が確かにあるということ。
やっぱり私、秋が好きだよ。
九月の微熱を肌に感じたまま、部屋の電気を消した。