先日知人が携わっている展覧会にて、過去に撮った写真や書いた言葉をそのままに展示してあるものを見た。彼女によって綴られた言葉の間をふわふわと漂っているうちに、過去の私がひょいと顔を出した。私が自覚的に物を書くようになったのはここ半年のことである。数年前の私は、私の記憶の中にしか最早形を留めていない。私も一度立ち止まって、過去の自分に何かしらの形を与えたくなった。この記事は、だから、私のためだけに書いたものだ。私と、過去の私のために書いたものだ。だから恐らく私以外の人々にとっては何でもなくて、面白味もなくて、よく分からないものだ。ということを、はじめに断っておく。

 

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数年前の自分を、思い出す。激情の渦を胸に抱えていた頃の私を。日々その渦は色合いを変えていった。私は喜び、悲しみ、愛し、苦しみ、泣いた。心というものが、無数の皮によって重層的に包まれた球体であるとしたら、私はその皮を引き剥がし、やわらかい芯の部分を野ざらしにしていた。

ある人が云った。

『どんな感情も、全てがやがて上書きされて過去に埋没していく。』

この言葉を聞いた時に初めて私は、私の今が、私のこの一瞬が、この感情が、いつか失われるということを想像した。それまでは、失われることなど、考えもしなかったのだ。ひたすらに、感情に全身を貫かれながら、時間を食べていたのだ。

 

11月。志望していた大学の文化祭に行った。通路を所狭しと埋める屋台、笑顔の大学生たち。「私も合格したら、あんな風に新しい友達とはしゃぎあっているのだろう。」私には、それが悲しくて仕方なかった。だって、"そこ"に今の私は居ない。きっと、今こんなにも切なくて苦しい私を、未来の私はせせら笑ってしまいこんでしまうに違いない。「あの頃は馬鹿だった」なんて言いながら。じゃあ、今の私はどうしたらいいの。傷つきながら、擦り切れながら時間を食べている私は、いつかは忘れ去られてしまうの。楽しい日々に、新しい日々に、上書きされてしまうの。

そんなの嫌だ。絶対嫌だ。忘れないでよ、閉じ込めないでよ。涙でにじんだ帰り道のこと、今でも思い出す。

 

祖父が死んだ。

優しい声をして、穏やかな、そして博識な祖父が死んだ。棺の中を覗くと、祖父の顔色は紫色になっていた。祖父の生きてきた日々は、祖父の経験してきた感情は、記憶は、どこに行ってしまったのだろう。きっと、この血の気のない皮膚の下、脳みその中にしまわれたままだ。でももう誰も、取り出すことが出来ない。色とりどりの花びらと共に焼却炉に入っていった祖父。次に見た時には、灰になっていた。灰の中から骨をひとつひとつつまみ、私はようやく気づいた。祖父の全てが、炎とともに失われたことに。祖父の記憶がいっぱいに詰まった脳みそも、灰になってしまった。

それでも帰りのバスの窓の外には冬の澄んだ青空が広がっていたし、葉を落とした枝が頼りなく伸びていたし、電車の外の闇には住宅の明かりが流れていた。まるで信じることが出来なかった。祖父がもうこの地上に呼吸していないということ。

「いつか灰になる」

そんな言葉がこびりついて離れなかった。泣き笑い苦しみ愛しても、いつか灰になる。駅のホームには今日もたくさんの人がいるけれど、私も彼らもいつか灰になる。寒々しい曇り空の下にのっぺりと佇むビルも、いつか灰になる。眩暈がした。私を取り囲む景色がぐにゃぐにゃとねじれ歪んでいく。世界の全てが、色を失った。

 

紅く染まった楓の葉が、視界に飛び込む。

燃えるような紅。この葉もいつか灰になる。

 

でもね、私の手元には「今」しかないのだ。燃えるような「今」と、灰となっていった「今」すなわち過去しか、手元には残ってゆかないのだ。

だとしたら。

紅く激しく燃やしたいのだ。今この一瞬を。

燃えずにくすぶったまんま失うよりも、盛んに燃え上がった灰がいいんだって、そう、私は今を燃やすことを選んだわけだけど、それはまた別のお話。