からっぽのわたし

今の私はからっぽだ。

心身ともに、からっぽ。それは清々しいからっぽではなくて、虚しさが付きまとっている。同じからっぽでも、晴れた休日の朝に電車に乗っている時のからっぽは、とても爽快なのだ。自分はからっぽだから、身軽で、どこにでも行けると思える。

虚しいからっぽは、大抵夜のせいだ。

暗くて冷たい夜、今日は帰りの電車でかけたプレイリストが凄く寂しい曲ばかりだった。人もまばらな近所の商店街を歩いて、コンビニスイーツを物色して、でもなんだか浪費は駄目な気がして、体は甘いものを欲しているのに何も買わずに出てくる。夜道は寂しいよね。今日は曇りで月も見えなかった。坂の上から後ろを振り返ったら、遠い街の高層ビル群の夜景が見えた。私は今こんなにからっぽなのに、夜景は「ほら綺麗だろ」と言わんばかりの顔をしていた。赤く点滅するライトは普段は好きだけど、今日はなんだかずっと見てられなくて、背を向けて家路を急いだ。

別にひとりぼっちじゃないんだ。実家暮らしだから家族もいるし、私の話を熱心に聞いてくれる素敵な友達も、優しい恋人もいる。

でも、私はからっぽだ、と思う。何もないのだ。私ひとりの中には、何もない。家族も友人も恋人も、私の外に居るから、別の他人。私の内側には、何にもない。

好きな曲ひとつ聞くのも、虚しい時がある。激しいロックに、ただ私はドーパミンを放出させられるばっかりだ。音楽は私を捉えて引きずり回して、私は音楽に対して何も出来ない。人を気持ちよくさせる音楽のひとつでも作れたら良かったんだろう。私には何も出来ない、からっぽだ。

からっぽの虚しさと、寂しさと、孤独は、どうにもできない。それが襲ったら最後、私はもがきにもがいて夜の時間をやり過ごして、無理矢理自分をなだめるみたいに眠りに落ちる。別にいいんだ、明日朝起きたらきっとケロッとしてるから。でも、もがいてる今は、どうしようもないことがどうしようもなく辛い。