2020年春

世界が、薄い半透明の膜を通して、ぼんやりと見えている。

 

朝、重たい身体を布団から引きずり出して、ものを食べて、洗濯をし、本を読んで、スマホを触り、空腹に耐えかねてまたものを食べ、風呂に入り、またぐずぐずと意識を眠りに落とす。それを繰り返す。
世界を知る術は、減ってしまった。私が今見えていると思っている世界は、右手の中にある液晶画面、その中に散らばるいろいろな人の声の集合体です。寂しさ、怒り、不安などの感情、あるいは、思想表明のようなもの、日常自慢のようなもの、誰かが鳴らしている警鐘。呟き声が、叫び声が、笑い声が、頭の中に鳴り響いている。雑然としている。気づかない間に、私は薬だけでなく、毒ともなるようなノイズをも、この液晶画面から聞き取ってしまっている。本当の世界は、どこにあるのだろう。この声の集合体は、本物らしく見えるけどどこか偽物。
本当の世界、それは、目の前で話すあなたの、あなたの、あなたの声だったのかもしれません。でもそれも今では遠い。私の頭の中には匿名の雑音がぐわんぐわんと鳴り響き、そのほかには、この部屋にぽつりと置かれた独り言と、私を時に責め、時に誘惑するもう一人の私の声しか、ない。
ここには、本物の声は、ありますか? 私の声と、もう一人の私が私に語りかける声さえも、本物らしく思えない、生活の中に。

 

世界が、薄い半透明の膜を通して、ぼんやりと見えている。

 

本当の世界は、どこに行ってしまったのだろう。今までは確かに、あったはずなのに。私にはあなたの肉声が、聞こえていた。私の世界は、確かにそこにあったはずなのです。
私は、一体、今どこにいるのでしょうか。薄ぼんやりとした窓の外の景色を眺めては、外に、この時間の向こうに、本当の世界が待っているはずだと、縋るように望みを引き伸ばす毎日が過ぎてゆく。
偽物みたいな私の声と、もう一人の私が私に語りかける声とが、今の私の世界なのかもしれないという、疑念がよぎる。認めたくない。私は私一人でこの部屋で、世界を目撃してはいない。早く、あなたの声が聞きたい。身体を持ち寄って、声を寄せ合いたい。
今の私は宙ぶらりん。世界はここにはありません。声に出会うまで、世界を目撃するまで、私、死なない。
死なないと信じているのです。

 

 

────────────────────

コラムランド2020Sセメスター第一回に際して執筆。テーマ「声」。