境界

"触れ合いに逃避  するのは禁止"

 

電車の揺れる音に混ざって、イヤホンから流れてくる聞き慣れた曲の、聞き慣れたはずのフレーズが、ピリッとした刺すような痛みを心に残す。さっきまで居た部屋、煙草の香りを思い出す。

 

触れ合いに逃避、すれば、そこはかとない所在なさや不安をどうにか埋めることが出来る。それは勿論間に合わせの方法でしかなくて、すぐに虚しくなるのは分かっている。 

 

我々はなぜ肌なんてものを持ってしまったのでしょう。なぜ触れ合いを欲してしまうのでしょう。それは勿論、私たちが動物的本能を備えているからです。高度な言語を操って高度な文明の中で生きようとも、所詮は生き物であることには逆らえないらしい。

 

ならいっそのこと、100%動物にしてくれればよかったのに。言葉なんてものがあって、こんな高度に発展した社会の中に埋め込まれてしまっているから、苦しいのです。いくら触れ合おうとも、次の瞬間にはなすすべもなく戻されてしまうのだ。必ずしもぴたりと通じ合うわけではない言葉が、渦巻いている世界に。安定的で地に足着いた生活を送らねばならないという社会に。

 

ああ、嫌だなぁ。言葉なんてものがなかったら、社会なんてものがなかったら、触れ合えど生じる言葉の摩擦や、決して関係性が安定的に続くことは無いだろうという不安に、虚しくなることもなかったかしら。そして、私はあなたのまっすぐな眼差しと、同じ時間を今過ごすことの幸福だけを、強く信じることができたのかしら。

 

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電気の消えた部屋。

すべての後、隣に横たわるあなた、その瞳は虚ろで、薄暗い天井ではなく、どこかもっと遠いところを見つめていた。あなたはおもむろに起き上がってテーブルの上の煙草の箱に手を伸ばし、窓を開けて火をつける。この部屋からは、美しい夜景なんて見えない。赤や緑やピンク色の、ネオンサインがすぐそこに散らかっていて、騒々しい夏の夜の空気の中に、煙草の煙が一筋、吸い込まれてゆく。

 

ベッドに横たわったままの私は、あなたの少し痩せた白い背中を、ぼうっと見つめる。この不毛な関係は、どこまで続いていくのだろう。きっと次もその次も、あなたは私を言葉でらくらくと騙してしまって、でも終わったあとには突然私を離すのだろう。今日みたいに。私じゃなくてどこか遠いところを見つめて。沈黙だけを私に預けて。

 

あなたが窓際で、二本目の煙草を取り出す。

 

私はどうしたって、刹那的な時間を動物的に愉しみ切ることなんて出来ない。あなたの今だけを見つめることは出来ない。今は良くても、次の瞬間にはあなたが立ち去ってしまうかもしれない。それに、私たち、欲望は釣り合っていても、言葉と感情はいつもすれ違ってばかりだもの。私はあなたの内側には入らせて貰えない。私だって、あなたをすべて自分の心の中に受け入れてしまうことは、きっと出来ない。

 

「ちょっとコンビニ行ってくるわ」

 

いつの間にか煙草を吸い終えたあなたは、一言そう言うと服を着て行ってしまう。私を連れて行こうとはしないのだろうし、私もまた、一緒に行くとは言い出せない。ドアがギィと音を立てて軋み、勢いよく閉まる音を、なすすべもなく聞く。あなたが不在の部屋の中、煙草の残り香だけが、嫌に優しげに私に触れた。