21℃

秋はひとり。 

 

日は既に短くなっている。夜になればしとしとと静かに雨が降り始める。虫は鳴きやまない。私のいないあの街で、あなたのいないあの公園で、今この時もあの時の私たち二人が、つまらない冗談に笑い合っているのかもしれないとふと思う。

 

文字にも残さなかった。あの頃の私は書き残すことをしていなかったから。忘れてしまえば、初めからなかったことと同じだろうか。私の記憶の反芻の中にしか、あなたの存在を確かめることはできない。

 

肺に染み込む孤独の香り。黒く濡れたアスファルト。革靴の底がじゃりじゃりと音を立てる。

 

幸せからの垂直落下。心臓の弱い方は御遠慮ください。突き放されること、拒まれること、ある日突然去られること。それは私を永久に苦しめる、毎年毎年決まった季節に。時限爆弾のようだ、暴力も優しさも。

 

「もう二度と、どこにも行かない」と交わす約束、その危うくもあたたかい部屋の中に、ひと時の安堵を溶かして抱きしめる。幸福はすべて、いずれ絶望として私たちを蝕むとして、それでも私たちがひとりでいることをやめる理由があるとしたら、それは一体何であろうか。

 

秋雨が泣く。

知らないの魔法

コンビニに買い物行ってくる。そう言って、家を出てきた。お母さんてば、口を開けばお父さんの悪口ばっかりなんだから。

家を出て真っ直ぐ歩いて、右にひとつ、左にふたつ曲がった角のところに、いつものようにその公園はある。小さすぎるその公園の、ペンキの禿げたベンチに腰掛ける。もう夏の盛りも終わったし、さすがに蚊はいないかな。

時刻は23時を回っているし、今日は平日だから、さすがに人通りは少ない。普段から淋しい道なのに、これじゃ淋しいを通り越してちょっと怖いじゃない。さっきお風呂上がりに妹と見ていた心霊番組を思い出して、思わず後ろを振り返る。後ろには茂みしかない。こういうのって、気にし始めると怖いのよね。見られてるって思うと、そんな気がしてくるもの。心霊番組なんてやってない冬には、私、日付が変わるまでこのベンチであいつと二人で座って見つめ合ってたくせに。ばっかみたい。

あの時の私たちのあいだに流れていた、ばかみたいに甘い空気を思い出す。それはピンク色で、いや、ちょっと紫色も入っていて、幻想的に魅惑的にきらきら光っていて、もやもやと霧のように私たちを包んでいた。私の頭ん中は、あいつのことでいっぱいだった。

恋愛の始まりって、どうしてあんなに刺激的なのかしら。後から考えてみれば、あのとき私はあいつの何を知っていたのだろう。何も知らなかったじゃないの。私が惹かれてたのは、あいつの外見だけだったのかな。確かにあいつは素敵な見た目をしていた。万人受けする見た目ではないのかもしれない。でも、目の下のうっすらとしたくまと、不健康なくらい白い肌と、薄いのにやたら血色のいい唇、猫背の背中、私が当時、それら全部に強く惹かれていたことは事実だ。

でも、きっとあの魅惑的なもやの正体は、あいつの外見だけが原因じゃない。さっき、「私はあいつの何を知っていたのだろう」と思ったけれど、そうだ。知らなかったからだ。知らなかったから、あんなに強く惹かれたんだ。隠されているものって、なんだか凄く素敵なものな気がするもの。それに、隠されているという状態自体の焦れったさも、あのもやの原因だったんだ。

リーンリーン、鈴虫が鳴いています。もう秋ですね。今日は月がほぼ満月、だけど雲がたくさんあるから、すぐに隠れてよく見えなくなってしまう。

「知らないから好きだなんて、無責任な感情」

おもむろにスマホのカメラスクロールを開く。今年の一月くらいにまで遡れば、きっとあのお気に入りの写真があるはず。あいつがこの公園で、分厚いコートに身を包んで、もこもこのマフラーをぐるぐる巻きにして、鼻の先を寒さで赤くしているあの写真。

あった。やっぱり、いつ見てもいい顔してるなぁ。目に気力の宿っていない感じが、たまらなくいい。

知れば知るほど、大切なものじゃないように思えてくるなんて、それは最初から大切なものじゃなかったのかもしれない。相手の表面だけ見て惹かれて、それでおしまいなんて、なんて薄っぺらいのだろう。

もう、そんな間違いしないって決めてたのにな。昔付き合った人達も、結局相手を知れば知るほど続けていく自信がなくなって、私から振ってきた。もうそんな暴力的で浅はかな自分は、卒業したつもりだったのに。

それに、お母さんとお父さんだってきっと、私とおんなじなんだ。お互いのこと知らないから綺麗に見えてただけで、知れば知るほど大事じゃなくなっていって、それで今、私に悪口なんか吹き込んでくるんだ。

カサカサビニール袋が鳴る音が、公園の脇の道を通るのが聞こえてハッとする。知らないおじさんがよたよた歩きで通り過ぎていった。昔よく、あいつ、近くのコンビニで買ったあったかい飲み物を持って、同じようにこの公園に来てくれたんだ。でも、今頃あいつは家でゲームでもしてるんだろうな。私のために飲み物を買ってきたりは、もうしないのだ。私だって、あいつとのあいだに漂っていた綺麗なもやを、もう取り戻せないのだから。

でも、はじめっから全部全部ニセモノにするのは、あの時の私が可哀想じゃんね。

ベンチから腰を上げた。どこへ行くかは、まだ決めてない。

新月の夜に。

夜の砂浜には、さざ波が打ち寄せ潮の匂いを運んでくる。新月の今夜、星は真っ黒な空いっぱいに瞬き、波は星あかりを受けてつやつや光る。足首を包む海水、きみのしずかな背中の後ろを歩く。わたしが歩む度、水がきらきら揺れて光るのはなんで。夜光虫だよ、ときみが呟いて、再び訪れる静寂と距離。

 

ひとは他人の感情が分からない。

きみがいま、何を思っているのか教えて。教えて欲しいけどそれは言葉にされた時点できっと偽物だろう。わたしはわたしの感情世界でしか生きられないということの、狭さ、歯痒さ。

 

ゆっくりと足を浅瀬に泳がせていたきみが、不意に立ち止まる。

 

半透明の薄い膜が、さっきからずっと、きみとわたしの間にある。そっと、手のひらを添えてみる。途端、きみとわたしの境界面は、サイダーの泡に包まれてしゅわしゅわと曖昧になってゆく。涼しい夏の夜風が吹いて、わたしのうなじのくせ毛を揺らす。

 

独りよがりの世界を、このゆるやかな時間の中に溶かしてなくしてしまえたなら。きみの気持ちを空想し、都合よくひとり悦ぶわたしの暴力性を、終わる夏のサイダーの泡に溶かして流してしまえたなら。

 

しゅわしゅわしてる白い光が、星空に溶けていく様子を、振り返ったきみの暗い瞳の中に広がっていく様子を、見ていた。

猛暑日

重なり合う二匹の虫の音が。私はそれがスズムシなのかマツムシなのかまるで分からないけど、眠れない夜はお世話になってます。虫は何のために鳴いているのかもよく分からないけど、私はそれが立派な音楽だと思っている。道端の雑草の中から虫の音が聞こえる時には、どの草むらから聞こえているのか、耳をすまして当てようとする。近づけば大きく、離れれば小さくなる鳴き声。

生活は少し追い詰められている方が生きている感じがしていい、なんて言っている私は多分一生せわしなくはたらくのだろう。じりじり直射日光の下で、イヤホンをしてもまだ聞こえてくる蝉の声を聞いて、生き急いでいる仲間のように感じていたら、道端に蝉がひっくり返っているのを見て惨めな気持ちになった。

夏は暴力。

ひらりと翻る綺麗なスカートを履いてみても、裸足でサンダルを引っ掛けてみても、電車、ショッピングモール、冷房の風に当たればお腹が痛くて惨めな気持ち。綺麗な布を纏ったからって、生臭い匂いが消えて、美しいだけの人形になれると思いましたか。

記憶の中の夏は、都合の良い編集が施されて、この体を焼くような暑さはカットされている。私は七月には、夏が本当は死の季節であることを忘れて、毎年きっと入道雲の向こうに蜃気楼を見る。

私は人間です。体温と同じくらいの暑さには対応できていません。このままどんどん夏が暑くなれば、いつか熱で壊れて動かない日が来るかもしれない。人の体は私が思っているよりずっと弱くて、脆くて、惨めで、生き物。 

ソーダの飲めない私はカラカラの喉を潤そうとして真水を飲んでいっそう渇く。砂漠で飲む水はきっと思ったより美味しくない。本当に暑い時、多分真水は物足りない。

 

私の生きているあかしも、虫の音のように誰かにとって音楽のように聞こえるのだろうか。私の呼吸と言葉が。「あなたの名前もわからないし、なんのために生きているのかも知らないけれど、あなたの呼吸にお世話になっております。」

顔のない君

蒸し暑くずるずると長引く梅雨の夜に、開いた小説に、「冬の匂い」という文字を見つけて、でもそれが全くもって嗅覚に結びつかないので悲しくなる。

「おもては冬の匂いで、街の匂い」

冬の雑踏の匂いって、どんなだっけ。夜、街路は冷たい雨に濡れて光り、吸い込めば肺の中が冷気で満たされて胸の奥がきゅっと締め付けられる。私は順々に、そこに書かれた街の様子を思い描いていく。途中まではよかった。なのに、匂いと温度だけは、もやもやしたままで私の表層を掠っていくだけだ。「匂いは五感の中でも最も忘れがたいもの」だとか、そんな文言を見たことがあるけれど、最も忘れがたいものを忘れてしまった私なんて、感性の閉ざされた干物のような存在ではないか。

 

この小説を読んで、もう何年になるだろう。

男女が毎夜食事をするだけの描写が続くこの小説。それなのになぜだか、ほんの数ページの中に感覚と色彩が鮮烈なまでに詰め込まれたこの話。

私はもう何年も、この小説に憧れを抱いて生きてきた。「裕也」、という名のその男性は、ゆったりと落ち着いた口調で、誠実で、手は日に温められた土のようなにおいがするらしい。

心惹かれる異性が現れる度に、「裕也」に彼らを重ね合わせてきた。今思えば無理がある。ゆったりと落ち着いてもなくて、誠実でもなくて、手は土のようなにおいがしないひとびとを、無理矢理に重ね合わせて脳内でドラマを組み立てていく。

私はきっと、彼らのことが好きなのではなくて、この小説が見せる世界が好きなだけだった。目の前の変わり映えしない現実に、きらきらとした紗幕を掛けて、己の他者への無関心さから目をそらす。この小説を読む度に、歴代の「裕也」たちが思い浮かんで虚しくなる。

今晩は、久しぶりにこの小説を読んでみたけど、「裕也」はのっぺらぼうだった。いつもは見えていたきらきらの景色も、切ない匂いも、鮮やかな色彩も、今夜はなんだか色褪せている。

それは果たして、想像力と感性が閉ざされてしまった結果であろうか。それとも、虚構の世界に逃げ込む自分を卒業した証であろうか。

「裕也」が顔を取り戻すとき、私は幸福でいるだろうか、それとも。

調和

雨上がりの渋谷の夜は、アスファルトが黒く濡れていて、街頭とネオンの色とりどりの光を溶かしこんでいる。

靴擦れの痛みを抱えたまま、ざくざく歩く。足先に落とした視線、隣からは小さな話し声と笑い声が聞こえる。

強く朗らかな態度でいることに、疲れ切っている自分がいて、そんなことをしなくたって一緒に居られる誰かの、囁くような話し声が、なぜか心の奥底に染みとおるのだ。

 

過不足のない時間だ。

こんなの初めて、と思うような、鮮烈すぎる幸福は、度を越した興奮と期待をもたらしそうでいつも怖い。それは一瞬だけ強烈に光って私を驚かせたら、あとは消えてなくなるような気がするから。

でも、きみたちとはなんだか、ずっと前から互いを知っていたように感じるよ。何を足し算するのも引き算するのも違うだろう、と信じられる、心地よさをありがとう。

ざくざくざく、猥雑な夜の東京も、趣味の悪い大きな広告看板も、今は好きだと言ったなら、普段の私は驚くだろうか。

一人になった帰り道は、夏の匂いがした。

 

境界

"触れ合いに逃避  するのは禁止"

 

電車の揺れる音に混ざって、イヤホンから流れてくる聞き慣れた曲の、聞き慣れたはずのフレーズが、ピリッとした刺すような痛みを心に残す。さっきまで居た部屋、煙草の香りを思い出す。

 

触れ合いに逃避、すれば、そこはかとない所在なさや不安をどうにか埋めることが出来る。それは勿論間に合わせの方法でしかなくて、すぐに虚しくなるのは分かっている。 

 

我々はなぜ肌なんてものを持ってしまったのでしょう。なぜ触れ合いを欲してしまうのでしょう。それは勿論、私たちが動物的本能を備えているからです。高度な言語を操って高度な文明の中で生きようとも、所詮は生き物であることには逆らえないらしい。

 

ならいっそのこと、100%動物にしてくれればよかったのに。言葉なんてものがあって、こんな高度に発展した社会の中に埋め込まれてしまっているから、苦しいのです。いくら触れ合おうとも、次の瞬間にはなすすべもなく戻されてしまうのだ。必ずしもぴたりと通じ合うわけではない言葉が、渦巻いている世界に。安定的で地に足着いた生活を送らねばならないという社会に。

 

ああ、嫌だなぁ。言葉なんてものがなかったら、社会なんてものがなかったら、触れ合えど生じる言葉の摩擦や、決して関係性が安定的に続くことは無いだろうという不安に、虚しくなることもなかったかしら。そして、私はあなたのまっすぐな眼差しと、同じ時間を今過ごすことの幸福だけを、強く信じることができたのかしら。

 

         *                    *                   *    

 

電気の消えた部屋。

すべての後、隣に横たわるあなた、その瞳は虚ろで、薄暗い天井ではなく、どこかもっと遠いところを見つめていた。あなたはおもむろに起き上がってテーブルの上の煙草の箱に手を伸ばし、窓を開けて火をつける。この部屋からは、美しい夜景なんて見えない。赤や緑やピンク色の、ネオンサインがすぐそこに散らかっていて、騒々しい夏の夜の空気の中に、煙草の煙が一筋、吸い込まれてゆく。

 

ベッドに横たわったままの私は、あなたの少し痩せた白い背中を、ぼうっと見つめる。この不毛な関係は、どこまで続いていくのだろう。きっと次もその次も、あなたは私を言葉でらくらくと騙してしまって、でも終わったあとには突然私を離すのだろう。今日みたいに。私じゃなくてどこか遠いところを見つめて。沈黙だけを私に預けて。

 

あなたが窓際で、二本目の煙草を取り出す。

 

私はどうしたって、刹那的な時間を動物的に愉しみ切ることなんて出来ない。あなたの今だけを見つめることは出来ない。今は良くても、次の瞬間にはあなたが立ち去ってしまうかもしれない。それに、私たち、欲望は釣り合っていても、言葉と感情はいつもすれ違ってばかりだもの。私はあなたの内側には入らせて貰えない。私だって、あなたをすべて自分の心の中に受け入れてしまうことは、きっと出来ない。

 

「ちょっとコンビニ行ってくるわ」

 

いつの間にか煙草を吸い終えたあなたは、一言そう言うと服を着て行ってしまう。私を連れて行こうとはしないのだろうし、私もまた、一緒に行くとは言い出せない。ドアがギィと音を立てて軋み、勢いよく閉まる音を、なすすべもなく聞く。あなたが不在の部屋の中、煙草の残り香だけが、嫌に優しげに私に触れた。