知らないの魔法

コンビニに買い物行ってくる。そう言って、家を出てきた。お母さんてば、口を開けばお父さんの悪口ばっかりなんだから。

家を出て真っ直ぐ歩いて、右にひとつ、左にふたつ曲がった角のところに、いつものようにその公園はある。小さすぎるその公園の、ペンキの禿げたベンチに腰掛ける。もう夏の盛りも終わったし、さすがに蚊はいないかな。

時刻は23時を回っているし、今日は平日だから、さすがに人通りは少ない。普段から淋しい道なのに、これじゃ淋しいを通り越してちょっと怖いじゃない。さっきお風呂上がりに妹と見ていた心霊番組を思い出して、思わず後ろを振り返る。後ろには茂みしかない。こういうのって、気にし始めると怖いのよね。見られてるって思うと、そんな気がしてくるもの。心霊番組なんてやってない冬には、私、日付が変わるまでこのベンチであいつと二人で座って見つめ合ってたくせに。ばっかみたい。

あの時の私たちのあいだに流れていた、ばかみたいに甘い空気を思い出す。それはピンク色で、いや、ちょっと紫色も入っていて、幻想的に魅惑的にきらきら光っていて、もやもやと霧のように私たちを包んでいた。私の頭ん中は、あいつのことでいっぱいだった。

恋愛の始まりって、どうしてあんなに刺激的なのかしら。後から考えてみれば、あのとき私はあいつの何を知っていたのだろう。何も知らなかったじゃないの。私が惹かれてたのは、あいつの外見だけだったのかな。確かにあいつは素敵な見た目をしていた。万人受けする見た目ではないのかもしれない。でも、目の下のうっすらとしたくまと、不健康なくらい白い肌と、薄いのにやたら血色のいい唇、猫背の背中、私が当時、それら全部に強く惹かれていたことは事実だ。

でも、きっとあの魅惑的なもやの正体は、あいつの外見だけが原因じゃない。さっき、「私はあいつの何を知っていたのだろう」と思ったけれど、そうだ。知らなかったからだ。知らなかったから、あんなに強く惹かれたんだ。隠されているものって、なんだか凄く素敵なものな気がするもの。それに、隠されているという状態自体の焦れったさも、あのもやの原因だったんだ。

リーンリーン、鈴虫が鳴いています。もう秋ですね。今日は月がほぼ満月、だけど雲がたくさんあるから、すぐに隠れてよく見えなくなってしまう。

「知らないから好きだなんて、無責任な感情」

おもむろにスマホのカメラスクロールを開く。今年の一月くらいにまで遡れば、きっとあのお気に入りの写真があるはず。あいつがこの公園で、分厚いコートに身を包んで、もこもこのマフラーをぐるぐる巻きにして、鼻の先を寒さで赤くしているあの写真。

あった。やっぱり、いつ見てもいい顔してるなぁ。目に気力の宿っていない感じが、たまらなくいい。

知れば知るほど、大切なものじゃないように思えてくるなんて、それは最初から大切なものじゃなかったのかもしれない。相手の表面だけ見て惹かれて、それでおしまいなんて、なんて薄っぺらいのだろう。

もう、そんな間違いしないって決めてたのにな。昔付き合った人達も、結局相手を知れば知るほど続けていく自信がなくなって、私から振ってきた。もうそんな暴力的で浅はかな自分は、卒業したつもりだったのに。

それに、お母さんとお父さんだってきっと、私とおんなじなんだ。お互いのこと知らないから綺麗に見えてただけで、知れば知るほど大事じゃなくなっていって、それで今、私に悪口なんか吹き込んでくるんだ。

カサカサビニール袋が鳴る音が、公園の脇の道を通るのが聞こえてハッとする。知らないおじさんがよたよた歩きで通り過ぎていった。昔よく、あいつ、近くのコンビニで買ったあったかい飲み物を持って、同じようにこの公園に来てくれたんだ。でも、今頃あいつは家でゲームでもしてるんだろうな。私のために飲み物を買ってきたりは、もうしないのだ。私だって、あいつとのあいだに漂っていた綺麗なもやを、もう取り戻せないのだから。

でも、はじめっから全部全部ニセモノにするのは、あの時の私が可哀想じゃんね。

ベンチから腰を上げた。どこへ行くかは、まだ決めてない。