裏通りにて

愛してるという言葉はなんて軽薄なんだろうね。君の口からそんな言葉が出てくるなんて。君の睫毛は陽の光を受けてきらきらしていた、君は普段の君よりも少しだけ素直で、元気で、可愛らしかった。私は誰の幻影を君に重ねて見ているのでしょう。君の夢を見た時は、必ず日記に書いているということ、君には決して言わないけど私だけが知っていること。本当に愛しい人を消費してはいけないよ、そんな言葉が聞こえてきたけど、私は本当は誰を一体愛しいのだろう。憂鬱を夢見る気持ちと、陽だまりを求める気持ちとが、私の心を引き裂いている。

 

青い薔薇

星を眺めるように、冷たい月を眺めてください。僕は隣りでただ、君の冷淡さだけを信じていたい。僕たちは決して砂漠の真ん中で美しく消えたりはできないこと、死んでも星にはなれないことを、痛いほどよくわかっている。私は確信している、君もそれがわかっているのだと。本にも音楽にもならないような無題の夜を目撃したい。糸が切れたようにこの街に放り出されて漂流するときだけ、僕は僕でいられるのです。

ほつれる

「お前の優しさは偽物だ」

と、誰かが私の頭の中で叫んでいて、私は今すぐヘッドホンを当ててうるさいロックでかき消したい。何が本当の優しさか分からないです。簡単に相手の気持ちを分かった気になるのは優しさではないのだろうし、私の頭の中で渦巻いている推測と最善手は所詮私の想像でしかない。それならば本当の優しさは一体なんですか。私は誰の気持ちも私の気持ちのようには解らないのだから、私のばら撒く優しさはエゴなのかもしれない、と思う。けれど、他者の気持ちを全く同じ立場に立って感受できる人なんているのだろうか。人は他人にはなれないから、そんなこと原理的に無理なのではないだろうか。ならば優しさなど最初から存在しないかもしれない。わたしたちにとって、そんな偽物の優しさは、暗闇から一方的に投げつけられる色とりどりの花束なのかもしれない。受け取って欲しい受け取って欲しいという気持ちに彩られて鮮やか過ぎる色の花たちが、投げつけられては萎れて枯れていくのかもしれません。本当の優しさなんてものを、人類は持ち得ないのかもしれず、ただ惑星があり水が流れ陽の光が注ぐということだけが、優しさとして私たちの足元に流れ着くのかもしれない。

夜間飛行

微炭酸、喉を通るときにじんわり熱く、感じているのは私だけ?  慣れない刺激は五割増、遠くにあるもの八割増、くそしょうもねぇ、くそしょうもねぇ全て、憎らしくて仕方ない、名前のないものは認めてくれない社会。高層ビル、最上階のベッドの上で眠るなら、目を閉じようとも聞こえる地鳴り、これは車か飛行機か、それとも海鳴りなのかと不安が唸る。憂鬱も感傷も用法用量守って頂戴、なんて言ってんじゃねぇ、感情には飲み込まれてなんぼ、でもどっかで眺めてる冷めた自分、依存症にも孤高にも振り切れない私たち、どこへ流れ着く?  なんなら吸い込まれてみよう、こちらを睨めつけている、遠く瞬く赤いランプたちの中へ。最上階から跳んだなら、幸福も絶望もきっと最上級、上昇気流が煽る上等なコート、墜落する前に脱ぎ捨てな、記憶も未練も一緒にな、下は見るなとお前が呟くカウントダウン

傷跡

こんな寒い曇り空の夕方に、街に出かける時、私は何の曲を聞いたらいいのだろう。この、私の過去も未来も全てがどうでもいいような、でもいとしい人達だけはどうでもよくないような、そんな気分にしっくりくる曲ならもうずっと前から存在してない。どんな音楽も微妙に凹凸の形が私の心の形に合わなくて、これほどまでの音の無駄遣いはかつてこの世にあっただろうか。

日の暮れた街の中、高架の上を電車が走る、その電車の中のある窓のそばに私は立っている。電車の進行方向と同じ向きを向いて窓の外を見遣れば、高架の下の方に、置き捨てられた自転車が、建物が、道路が、信号待ちの車のテールランプが流れてゆく。上からそれを見つめる私は、まるで世界を統べているかのような気分の良さを感じる。

誰かに傷つけられたときの言葉を思い出そうとしても、すぐには浮かんでこない。確かにそれらは存在していたし、私の記憶の中に沈殿しているはずなのに。傷の記憶はコントロールできない、きっとそれらは、何の気なしに再訪した土地やお店や、懐かしい香りによって不意に想起されて私を小さな針で刺す。すっかり忘れていた人の、すっかり忘れていた台詞に、今の私がもう一度傷つく。思い出は、一度忘れないと思い出にならないとか言う。思い出すから思い出なんだと言う。

洗濯物を干す人

季節の変化を、濡れた洗濯物を干す時と取り入れる時に感じるようになった。

 

週の半分以上の時間を、家に引きこもって過ごしている私は、昼前にのそのそと起き出し、部屋着のまま洗濯機を回してテレビを見ながら朝ごはん(昼ごはん?)を食べる。洗濯が終わったらベランダに出る。

手に持った濡れた服が少し冷たくて寒いと感じるほど、一気に冷え込んだ時期があった。もういつのことだったか覚えていないが、数週間前のことだろう。秋の朝をすっ飛ばし、早くも冬の朝の鋭い冷たさを私はベランダで感じ、ひとり静かに度肝を抜かれてひやひやしたのを覚えている。

あれからしばらく経って、冬のような寒さは過ぎ去り、穏やかな秋晴れの日が続いている。洗濯物を手にベランダに出れば、雲ひとつない抜けるような青空が広がっていて、清々しいけど少し恐ろしい。夏の青空は大抵猛暑と共に広がっていてあまりにうるさく圧倒的だが、秋の青空はひたすらに静かに高く澄んでいて、陽光に照らされた木々は少しずつ色を変えており、その光景があまりにも正しく静謐な美しさなので私は怖くなる。

ともあれ、晴れの日が続くのはいいことだ。なんてったって洗濯物がよく乾く。ひとつひとつ丁寧にハンガーにかけた服たちを等間隔で物干し竿に掛け終わったのはもう昼のことだった。

日が短くなっている。日が短くなっていることに、ふと窓の外の洗濯物たちに目をやった時に気づく。ガラス戸を開ければ昼間より少しだけ空気は冷たく、雲ひとつなかった青空は、雲ひとつたたえぬまま淡色(あわいろ)に薄く染まっている。夏の夕暮れが鮮やかな色同士の戦いなら、秋の夕暮れはすべての色たちに等しく白を混ぜたよう。色は薄いけれど、限りなく透明に近い色だ。

秋の夕暮れの色は日によってかなり異なる。水色一色のままの時もある。紫から黄色へのグラデーションを成すこともあれば、水色から黄色へのグラデーションもある。時には橙色がそこへ加わることもあり、私は橙色を含んだ秋の夕焼けがとても好きだ。静かで透明な中に、何かひとつ、鮮烈な熱を秘めているようで。

物干し竿に掛かった洗濯物を触れば、やはりまだ湿っている。日が短いのに寝坊をしてしまったので、じゅうぶんに陽の光を浴びられなかったのだろう。事実、秋の太陽はなぜか、十三時にも十四時にも、まるで夕暮れ時のように鋭角の光を黄金色に投げかけている。きっと洋服たちが浴びたいのは、午前中の眩しい太陽の光なのだろう。今日も申し訳ないことをしてしまった。今日取り込んだ服たちよ、明日こそは少し早く起きて、午前のうちに外に出してあげるからね。

 

いつだって、うちのベランダから見える景色は静けさの中に横たわっている。私の家は住宅街の中にあるから、静かなのは当たり前かもしれない。たまに、隣の家のテレビの音がやたらうるさく聞こえてきたり、遠くの小学校から子供たちの遊ぶ声がさわさわと、幻のように私の耳に届いたりする。

毎日の洗濯物のお世話の時間が、ひとつの固定観測地点になっていて、私はベランダに出る度に、季節の移り変わりゆくさまをなんとなく感じ取る。洗濯物は季節によって、天気によって、気持ち良いくらい完璧に乾いたり、全然乾かなかったりする。洗濯物にかかわる時間は私にとってひとつの手触りある現実だ。

一方で、ベランダから眺める静かすぎる眺めや、たまに幻のように届く音たちは、おそらく確固たる現実としてそこにあるのだろうけれど、私にはそれが現実の世界だということがよく分かっていない。そこには確固たる手触りはなく、私はベランダにひとり立ち、ガラス一枚を挟んで世界を傍観しているような気がする。

 

ある日の私は、日も暮れ切った18時に、洗濯物を取り込んでいないことを思い出してベランダに出る。外はすっかり暗いけれど空は少しだけ青色を含んでいて、家の前の道をバイクが通る音が耳に飛び込む。それらをどこか他人事のように眺めながら、洗濯物を触ればすっかり冷たい。冷たい布の手触りと晴れた秋の夜のひやりとした空気だけが、真実として私に接続する。

郷愁

私の生きている時間は今ここだけで、私の大好きな人達は確かに私の生きている時間の中にきらきら輝きながら現れるのに、君の生きている時間を私は決して知ることはできない。そちらは寒いですか。いかがお過ごしですか。君が今よりずっと小さかったときから、君と共にある場所、人、記憶、想像しようとして立ち尽くす。雪原、風吹く田んぼ、ミルクティー。私には決して触れることができないということが、少し悔しくもあるけど、それは何か、この世の真理であるような気がします。尊い、孤高の真理であるような気がします。同じ島国のどこか遠い遠い小さな町の寒夜の底で、君が今も、あたたかな住処の中で、ひとり静かに幸福であるところを想像する。どうかどうか、お元気で。足は冷やさぬよう、お腹も冷やさぬよう、夕焼けを沢山見て、夜の底を沢山歩いて。