炎天

草熱れの中を歩く。視界は青く茂る草木で埋め尽くされている。遠くから、一羽二羽の蝉の鳴き声が聞こえる。別の虫の声も聞こえる。虫の声はなんとなく夜中に聞くものだと思っていたのだが、日中も蝉以外の虫は鳴いているようだ。暑い。身につけた布がすべて肌に張り付いてくるような湿度である。家から徒歩五分の公園なのに、まるであらゆる時間と空間から隔絶されたような、心細さと少しの恐怖に身震いする。夏の日差しのもとでは、何か不穏なことが起こりそうな気がしてくる。小説の中には、太陽の眩しさが理由で人を殺した人がいたらしい。自分もふっと目眩がした拍子にそんなふうに引き金を引いてしまいそうな気がしてくる。あるいは、すぐそこの草むらから、だれかヤバい人が姿を現し、襲いかかってくるような気がしてくる。池の鯉も今日は心做しか苦しそうに口を開閉している。蝉の声が鳴り止まない。視界は青く茂る草木で埋め尽くされている。夏の昼はなんだか不気味で怖い。怖い怖い。全てが生きてるのに死んでる気がする。もしくは、五分後に全てが音もなくふっと死ぬような気がする。早くこの草むらを抜けなくては。早くこの時間を抜けなくては。

依存症

音楽だけが、僕のことを殺し続けてくれる。鼓膜を叩くベースの低音が、僕の生を夜の表面に打ち付ける。ベースにギター、打ち込みのパーカッション、キーボード、ボーカル、コーラス、全く別の力に駆動されて蠢く全く違う音たちが、僕の耳に全部が全部一緒くたに雪崩込む。音たちは僕の脳内でぶつかり、縺れ合い、絶え間なく火花を散らして、僕の大事な大事な記憶を焼きながら、燃える。進んでいく。肺を凍らす冬の外気より、夏の夜の涼しい夜風より、雨音の静けさより、何より音楽が僕を殺す。発光する。音楽は終わらないし、僕は、何度でも殺される。僕の恋より、君の最低な一言より、音楽の暴力が一番綺麗で一番最高。引きずり回されたい。一拍、二拍、手に胸に、脳髄に、鋭い釘を打ち込み続けてほしい。太い杭を鈍く沈ませてほしい。僕は死ぬまで殺され続けたい。

0時。さっき二人で歩いた街路は、しっかりと雨に濡らされていて、でももう雨は降ってなかった。当たり前だけど、夕方には人出のあった街も、こんな時間になると誰もいないんだ。足音ひとつしない夜の商店街で、街灯の白い光だけがやけに煌々と灯っている。私、こんな街の姿、見たことなかったな。いつもは部屋にいる時間。

ねぇ、空気の匂いを嗅いでみて。わかる?残酷だね、もう春の匂いだ。それに、雨後の土の匂いも混ざっている。それはほんの少し死の匂いだ。円環の季節を移ろっていく自然は美しい、けれど、たまに不安になる。春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬が繰り返していく、その円環の中に私はこれから先ずっと閉じ込められたままなんだろうか。来年もきっと同じように春が来て、桜が咲いて、散って、新緑が瞳に眩しく、そして梅雨が来て。

私、あなたになりたかったな。ここから見えるあなたは、とてもきれいだったよ。例えば夜のプールの水底みたいに。灯りに照らし出された水は青色に揺らいで、水底には光の模様がゆらゆらと波打っている。あなたは私にすべてを見せてはくれなかったし、私から見えるのはいつも薄明かりの中の幻のような光だけだったけれど。でもそれがとっても、きれいで、私はずっと、水辺を離れることができなかった。

いっそ飛び込んで、私も溶けて水になってしまいたかった。

でも、水際でいい。ゆらゆら揺れる水の中を、一人でここから覗き込んでいるだけでいいの。だって、私が飛び込んだことで、きれいなあなたが変わってしまうのが、消えてしまうのが怖い。なんで飛び込んだの、って責められるのが、拒まれるのが怖いもの。私はだから、プールサイドに体育座りをして、ただ目の前の青色の光に魅せられていた。

夜のプールを照らしていた光はいつの間にか消えていて、真っ暗闇ではあなたの形も見えなくなってしまった。まぶたの裏には確かに深い青の光がこびりついているのに。こんなにもかんたんに、見えなくなってしまうのね。あなたの光を失うくらいなら、一生遠くから見つめていようと思っていたのに。やがて見えなくなってしまうなら、飛び込んでおけばよかったのだろうか。水際であなたを見ていた私の時間は、ちゃんと存在していたのだろうか。それすらも確信が持てなくなる。もう以前のようにあの青の光の美しさをありありと思い描くことができない。

毎年同じような季節のめぐる円環の時間の中には、色々なものが閉じ込められている。青の光、いつかの炎、恐怖に安堵、軽やかな失望。季節がめぐるたびに、それらは折に触れて私を襲う、この先もずっとそうだと思っていた。でもそうじゃなかった。季節がめぐるほど、それらは少しずつ確実に、忘れられていく。私はもう、あのとき目の前にあった光をあのときの熱のまま想起することができないし、すべてが輪郭をぼかされて砂の中に埋もれていくのを、なすすべもなく見つめているしかない。いつか私を魅了し、私に何かを渇望させ、私を苦しめもしたものたちが、もう私に一ミリの感情の波も起こさなくなっていくのを、ただ過去になっていくのを、見てる。

私、きれいなあなたになりたいままでいたかった。雨で濡れた夜道の真ん中で、私、涙ひとつこぼせないまま、そう思った。

移動

平日の昼間の山手線に乗ると、窓の外を流れていく東京の景色たち。差し込んだ西日が窓枠の形に切り取られて床の上に日なたを作るのを見ている。世の中というものはあまりにも複雑で、乗り換えの駅ではいつも目眩がしそうになる。けれど、電車の中から見る世界は、いつも遠くて、私はその遠さに安堵しているのだと思う。それは次々流れ去っていくし、私は複雑な世界にいちいち留まる必要がない。電車から見える東京は、物としての街であり、地形としての街だ。無数の窓ガラスは等しく黄金色の西日を反射している。坂があり、谷があり、背の低い街があり、背の高い街がある。流れ去っていく街の特色は街ごとに様々だが、電車の中から、一定の距離から傍観する街はその複雑な文化や個性を奪われ、物質としての街に近づいていく。この都市のあまりの複雑さに、その混然とした有り様に目眩がしそうになったら、私は地下鉄には乗らずに、車窓を眺めることにしている。

私の眠れない夜が、誰かの眠れない夜に接続しないかな、とずっと一人で思い続けているけど、きっと繋がりはしない。たとえ接続したとしても、きっと私の輪郭も誰かの輪郭ももっと際立つ。混ざり合いはしない。どうやら私は、私の外側には出られないらしい。水蒸気が揺れる、波のように揺れて私の首元に降りてくる。決して掴めないけれども美しく揺らぐものを、私は私の内側から見つめて羨んでいる。そこに溶け合えないこと、分かっているけど、たまに夜、すごくすごく歯痒くて、無理に自分の輪郭を曲げてまで飛び込みたくなる。あなたの眠れない夜の話を聞かせて。できれば私と一緒に眠れない夜をひたすらに散歩してほしい。人をかたどる輪郭は、決して消えはしないとしても。雨の降る街路、水溜まりの中に橙色の灯りが溶けて落ちていくのを、羨ましく見ている。月のない夜。

平衡

夜の中を走る電車の中を走りたい。駆け回って、飛び回って、みんなが僕のことを、頭のおかしい人だと思うだろう。でも君たちの方がおかしいって言いたい。だって窓の外には無数の明かりが凄いスピードで流れていってる。先頭車両の方を見れば、くねくねと線路に合わせて形を変える、この箱は生き物じゃないか。夜の中を駆ける箱に乗って、僕はこんなに眩しい歌を聞いてる。

 

何が大人だとか、何が正しいだとかを、知った振りをする友達はみんな嫌いだ、そんな言葉を疑いもなく吸い込んでは、徐々に安定していく僕も嫌いだ。揺らがないように、転ばないように、間違えないように、穏やかであるために、そんな主義が僕の頭を段々巣食っていく、救えないんだよ誰のことも、だって僕はこんなに汚れてしまった。掬いたかった、君の見ている世界を。それさえも不実だと誰かが言う。

 

息切れしてもいい、白い目で見られてもいい、沈んでもいい、行き倒れてもいいんだ、本当は。本当は僕はそんなふうに生きて死にたい。きっとずっとそう言いながら生きながらえる。

天国

君が出てくる夢を見た。けれどもう、何を話したのかも、どこにいたのかも覚えていない。ただ、とても穏やかであたたかな空気が私たちの間に流れていたということ、それはまるで、戦いの終わった後のような、すべてがゆるくほどかれていくような安堵に満ちていた。夜明けだった。厳冬を越えたようだった。もう大丈夫、もう何も心配することはない、もう何も終わらないから、もう誰も消え去ったりしないから。そんな気持ちだけを覚えている。あれは陽射しの色をした天国だったのだろうか。夢から覚めても終わらないでほしい。大切な大切な全ての命が、尽きずにあればいい。思わずそう願ってしまう私は、どのような罪で裁かれるだろう。