ヘンゼルとグレーテル

日常に染まりゆく。

ここが私の居る場所なんだと、居場所以外の場所にゆくたび強く思う。一年前の私が持ってなかったものを今の私は持っているし、一年前の私が持っていたものを今の私は失っている。二年前、三年前、四年前だっておんなじこと。私というものは、常に変化していて、おんなじ私じゃないんだ、もうきっと。 

 

ぽろぽろと、過去、その時点その場所にこぼしてゆく自分の欠片。パン屑を撒くように。美しいものや、強いもの、鮮やかなものが、一瞬だけ眩しく光ったときのこと、忘れたくないって強く強く思う。強く強く刻みつけるから、案外忘れてないよ。私は今でも覚えてるよ。校庭の隅っこから君を見てたじりじりする憧れ。雨の日の帰り道のてらてらしたアスファルトに溶かした涙のこと。写真にはうまく写せなかった駅から見た夕焼け空。作り物みたいな光がいっぱいの港町で凄くかなしかったこと。

 

その時点にはもう戻れないよ、私はもう変わってしまったので。でも、その場所に行くたび、ふらっと出会ってしまうね。そこに取り残されたまんまだった私の一部が、ぐつぐつふつふつ沸き始めて、今の私の足裏から熱を伝える。そうして波が立ったこころを、人は、感傷、とかって呼ぶのかもしれない。

 

取り残された私の欠片は、今はもう変わってしまった過去の私の欠片だから、ほんとは全部思い出すことなんてできないんだ。理解することだってできない。なのに、都合よくかなしくなったり、懐かしくなったり、黄昏れてしまうのは、なんだか今の私による傲慢のような気もする。わかった気になって、都合のいい感傷。

 

それでもきっと、自分の欠片をちょっとずつちょっとずつ撒いて通ることでしか、人は人生というものを生きられない。忘れたくない過去が増えてゆく度、欠片を撒いていく度、自分というものは減っていくのかな。おしまいの日には、欠片を撒き切って、もう私はほんのちょっとしか残ってないのかもしれない。でもそれでもいいと思う。自分を、過去にこぼしてゆくこと、それが生きるということなのだろう。少なくとも、私にとっては。