硝子

壊れかけの人間と、壊れた関係性とが同居しているこの空間で、私は生も死も見たことがないのに、勝手にすべてをわかった気でいる。一度つまずいたら、誰もが再び歩き出せるとは限らなくて、彼が陽の光を浴びなくなって何年経つのだろう。つまずいた時から時が止まったような気がしてるのは私だけで、必要最低限の食料を摂取しながら、ぬるぬると背が伸びていくのを、私は覗き見しながら未だに信じられない。夫婦が尊いものだって言い出したのは誰ですか。尊いと言えるのは、二人が我慢と諦めを何十年も限りなく積んできたからなのだろうか。どうやったって合わない形をしているのに、無理矢理擦り合わせてぶつけ合わせていくこと、その先にあるのが関係性の死だとしても、それは尊いことなのだろうか。いろいろな理由があって、捻れたまま、歪んだままの生活を続けていかなければいけない。それを受け入れなきゃいけない、苦労を称えないといけないだなんて、私には到底理解できない。関係性が生まれて、壊れて、枯れていくのを目撃してしまった、それは悲しさでもなく不幸でもなく、ひたすらに虚しさだ。何が美しさか分かりません。何が尊さか分かりません。ひとつの関係性に燃料を注ぎ込み続けて延命措置を施すことが、いいことだとは思えないのは、二年前の私と同じだね。関係性はやがて死んでゆくのが自然だとしたら、私は墓場を見るのがどうしても嫌で、それは甘えというものなのかもしれません。春の雪が、永遠や愛をたたえる馬鹿みたいに明るい世界を灰色に沈めてゆくのを見るのは心地よくて、私の体は健康でも心は限りなく無に近づいている、そんな一瞬。