そして人はどこかに還る

向こうでちらちら揺れてる光があるよ、無数の。水平線は霞む光の帯となってぼくの目に映る。東京の夜景を眼下に海のように見ていて、ひろいひろいなぁ、テールランプが泳いでいる。ぼくはこの都市のことを知ってるようで何も知らない。はるはるゆらゆら、ひろがる、この海を、高くから見渡せる場所を、いくつか知っているけど、どこから見ても違う表情で、ぼくは昔好きだったともだち達の横顔を思い出す。どこかの街のエスカレーターの一段上から見下ろす、夕陽を受けたともだちの横顔がきれいだったこと、隣り合わせの席だと、笑ったかおがよく見えないから少し残念で、気づかれないように盗み見たこと。ほかの人と話すときのともだちは、ぼくと話すときのともだちとは別の人みたいで、少し寂しくて、同時に少し安心もしたこと。ぼくはあなたたちのすべてを知ることはできないし、ぼくはちゃんとひとりだ。大丈夫、この広くて密度の高い都市で、ぼくは馬鹿みたいにともだち達に惹かれながら、彷徨っているよ、何年経っても。真っ直ぐ燃える朱い鉄塔を眺めるぼくの視線が変わっても、昔のぼくをなくしても、ぼくはちゃんと孤独でいるよ。

君のことを忘れてはいけない。

三日月が雫を落とすとき、銀色のそよ風が吹いて僕と君の隙間を通り抜ける。ひどく強い、決定的な豪雨が降りそうな、そんな曇った夜空だけが一年も二年も続いている。

白と金色の光の粒がちらちら泳いでは宵闇に消えて、静寂、静寂と張り詰めた僕の心と。君の笑う目元が綺麗。

涼しい風は無性にかなしいから、このまま消えてなくなりたい。

君に近づきたい僕はたぶん明日の朝には消えている。そんな気分を何度も何度も手にしては手放して息をしている。吸って吐いて吸って吐いて、息をし続けるために生きているのか、数分後に死ぬとしてもいまを生きるために生きているのか。

月がまた雫を落とす。瞬いて光が消えてゆく、君の目元がまた笑う。

炎天

草熱れの中を歩く。視界は青く茂る草木で埋め尽くされている。遠くから、一羽二羽の蝉の鳴き声が聞こえる。別の虫の声も聞こえる。虫の声はなんとなく夜中に聞くものだと思っていたのだが、日中も蝉以外の虫は鳴いているようだ。暑い。身につけた布がすべて肌に張り付いてくるような湿度である。家から徒歩五分の公園なのに、まるであらゆる時間と空間から隔絶されたような、心細さと少しの恐怖に身震いする。夏の日差しのもとでは、何か不穏なことが起こりそうな気がしてくる。小説の中には、太陽の眩しさが理由で人を殺した人がいたらしい。自分もふっと目眩がした拍子にそんなふうに引き金を引いてしまいそうな気がしてくる。あるいは、すぐそこの草むらから、だれかヤバい人が姿を現し、襲いかかってくるような気がしてくる。池の鯉も今日は心做しか苦しそうに口を開閉している。蝉の声が鳴り止まない。視界は青く茂る草木で埋め尽くされている。夏の昼はなんだか不気味で怖い。怖い怖い。全てが生きてるのに死んでる気がする。もしくは、五分後に全てが音もなくふっと死ぬような気がする。早くこの草むらを抜けなくては。早くこの時間を抜けなくては。

依存症

音楽だけが、僕のことを殺し続けてくれる。鼓膜を叩くベースの低音が、僕の生を夜の表面に打ち付ける。ベースにギター、打ち込みのパーカッション、キーボード、ボーカル、コーラス、全く別の力に駆動されて蠢く全く違う音たちが、僕の耳に全部が全部一緒くたに雪崩込む。音たちは僕の脳内でぶつかり、縺れ合い、絶え間なく火花を散らして、僕の大事な大事な記憶を焼きながら、燃える。進んでいく。肺を凍らす冬の外気より、夏の夜の涼しい夜風より、雨音の静けさより、何より音楽が僕を殺す。発光する。音楽は終わらないし、僕は、何度でも殺される。僕の恋より、君の最低な一言より、音楽の暴力が一番綺麗で一番最高。引きずり回されたい。一拍、二拍、手に胸に、脳髄に、鋭い釘を打ち込み続けてほしい。太い杭を鈍く沈ませてほしい。僕は死ぬまで殺され続けたい。

0時。さっき二人で歩いた街路は、しっかりと雨に濡らされていて、でももう雨は降ってなかった。当たり前だけど、夕方には人出のあった街も、こんな時間になると誰もいないんだ。足音ひとつしない夜の商店街で、街灯の白い光だけがやけに煌々と灯っている。私、こんな街の姿、見たことなかったな。いつもは部屋にいる時間。

ねぇ、空気の匂いを嗅いでみて。わかる?残酷だね、もう春の匂いだ。それに、雨後の土の匂いも混ざっている。それはほんの少し死の匂いだ。円環の季節を移ろっていく自然は美しい、けれど、たまに不安になる。春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬が繰り返していく、その円環の中に私はこれから先ずっと閉じ込められたままなんだろうか。来年もきっと同じように春が来て、桜が咲いて、散って、新緑が瞳に眩しく、そして梅雨が来て。

私、あなたになりたかったな。ここから見えるあなたは、とてもきれいだったよ。例えば夜のプールの水底みたいに。灯りに照らし出された水は青色に揺らいで、水底には光の模様がゆらゆらと波打っている。あなたは私にすべてを見せてはくれなかったし、私から見えるのはいつも薄明かりの中の幻のような光だけだったけれど。でもそれがとっても、きれいで、私はずっと、水辺を離れることができなかった。

いっそ飛び込んで、私も溶けて水になってしまいたかった。

でも、水際でいい。ゆらゆら揺れる水の中を、一人でここから覗き込んでいるだけでいいの。だって、私が飛び込んだことで、きれいなあなたが変わってしまうのが、消えてしまうのが怖い。なんで飛び込んだの、って責められるのが、拒まれるのが怖いもの。私はだから、プールサイドに体育座りをして、ただ目の前の青色の光に魅せられていた。

夜のプールを照らしていた光はいつの間にか消えていて、真っ暗闇ではあなたの形も見えなくなってしまった。まぶたの裏には確かに深い青の光がこびりついているのに。こんなにもかんたんに、見えなくなってしまうのね。あなたの光を失うくらいなら、一生遠くから見つめていようと思っていたのに。やがて見えなくなってしまうなら、飛び込んでおけばよかったのだろうか。水際であなたを見ていた私の時間は、ちゃんと存在していたのだろうか。それすらも確信が持てなくなる。もう以前のようにあの青の光の美しさをありありと思い描くことができない。

毎年同じような季節のめぐる円環の時間の中には、色々なものが閉じ込められている。青の光、いつかの炎、恐怖に安堵、軽やかな失望。季節がめぐるたびに、それらは折に触れて私を襲う、この先もずっとそうだと思っていた。でもそうじゃなかった。季節がめぐるほど、それらは少しずつ確実に、忘れられていく。私はもう、あのとき目の前にあった光をあのときの熱のまま想起することができないし、すべてが輪郭をぼかされて砂の中に埋もれていくのを、なすすべもなく見つめているしかない。いつか私を魅了し、私に何かを渇望させ、私を苦しめもしたものたちが、もう私に一ミリの感情の波も起こさなくなっていくのを、ただ過去になっていくのを、見てる。

私、きれいなあなたになりたいままでいたかった。雨で濡れた夜道の真ん中で、私、涙ひとつこぼせないまま、そう思った。

移動

平日の昼間の山手線に乗ると、窓の外を流れていく東京の景色たち。差し込んだ西日が窓枠の形に切り取られて床の上に日なたを作るのを見ている。世の中というものはあまりにも複雑で、乗り換えの駅ではいつも目眩がしそうになる。けれど、電車の中から見る世界は、いつも遠くて、私はその遠さに安堵しているのだと思う。それは次々流れ去っていくし、私は複雑な世界にいちいち留まる必要がない。電車から見える東京は、物としての街であり、地形としての街だ。無数の窓ガラスは等しく黄金色の西日を反射している。坂があり、谷があり、背の低い街があり、背の高い街がある。流れ去っていく街の特色は街ごとに様々だが、電車の中から、一定の距離から傍観する街はその複雑な文化や個性を奪われ、物質としての街に近づいていく。この都市のあまりの複雑さに、その混然とした有り様に目眩がしそうになったら、私は地下鉄には乗らずに、車窓を眺めることにしている。

私の眠れない夜が、誰かの眠れない夜に接続しないかな、とずっと一人で思い続けているけど、きっと繋がりはしない。たとえ接続したとしても、きっと私の輪郭も誰かの輪郭ももっと際立つ。混ざり合いはしない。どうやら私は、私の外側には出られないらしい。水蒸気が揺れる、波のように揺れて私の首元に降りてくる。決して掴めないけれども美しく揺らぐものを、私は私の内側から見つめて羨んでいる。そこに溶け合えないこと、分かっているけど、たまに夜、すごくすごく歯痒くて、無理に自分の輪郭を曲げてまで飛び込みたくなる。あなたの眠れない夜の話を聞かせて。できれば私と一緒に眠れない夜をひたすらに散歩してほしい。人をかたどる輪郭は、決して消えはしないとしても。雨の降る街路、水溜まりの中に橙色の灯りが溶けて落ちていくのを、羨ましく見ている。月のない夜。